570体罰
体 罰


575体罰がいけないとされる理由
体罰がいけないとされる理由

  罰がいけないとされる10の理由の検証
力の弱い人の言うことをきかなくなる。
教え方次第ですが、恐怖心で従わせているにすぎない場合に、こうした問題が生じてくることは多くあります。
それ以外でも、そのような傾向は見受けますが、ただしこれは、他の方法においても一般的には同じことです。
好きだから言うことをきくように教えれば、好きな人の言うことしかきかなくなりますし、 オヤツで教えれば、オヤツをくれない人の言うことはきかなくなります。
むしろ、教える時期や方法により、そうならないようにすべきでしょう。
しかし、きちんと教えれば、訓練の仕上がりにおいては誰のいう事でもきくようになります。

罰子を与える行動を、罰子を受ける人や周囲の人が観察学習する可能性がある
これは、大きな問題です。
私は罰の使用を公言していますが、人前であまり罰を使わない理由は、まさにこのことによるものです。
発言さえも一部分だけを抜き出せば、趣旨と全く異なる印象を与えることがありますし、見様見真似で、誤って伝えられる危険性があります。
昨今の例では、マズルコントロールやホールディングにおいて非常に馬鹿げた解説を得意気にする人がいます。

副作用がある。
その通りです。弊害を十分に知ったうえで、それに対する対応も併せて、正しく用いるべきでしょう。

恐怖や怒りなどの情動反応を引きおこす
まさに一次性罰の大きな弊害であり、それゆえに罰の使用は難しいとも言えます。
犬の稟性によって、適切な方法や強さなどが違いますので、素人判断に基づくむやみな罰はお薦めしません。


罰を与える人や、その周りにいる人や物への転嫁性の攻撃を引き起こすことがある
大きな罰の弊害と言えるでしょう。だからこそ、むやみに罰を使ってはいけないのです。
ただし反射的な攻撃行動は、その犬の稟性自体に大きな問題のある先天的な要素によることも多く、 そうした場合は、罰そのものは原因ではなく、きっかけにすぎないことも多くあります。
これは本来なら繁殖者の責任というべきことです。
こうした犬の場合には人為的な体罰だけではなく、環境からの偶然の罰 (もともと過敏な場所を自分が動いた拍子にどこかにぶつけたなどの場合)にも攻撃行動が表れます。それ以外には、それまでの育て方に問題のある犬である場合や、または、とんでもない強さの罰を与えたときなどに見受けられます。
いずれにしろ、重篤な結果をもたらす危険性が高い攻撃性であり、特に打撃系の罰は一層の悪化を招きます。

回避行動が強化される
罰は必ずしも下すことを目的とはせず、時に、この回避行動を目的として行なうこともあります。
まさに使い方次第のところであり、呈示による回避や抑制あるいは、促進といった要素もあります。
回避行動がいけないとするのであれば、賞においても近道行動が強化されるという弊害が生じます。

逃避行動が強化される
犬を知らない人や訓練を知らない人が、むやみに体罰を用いれば、当然にそうなります。
電子レンジで猫を乾かしたら・・・・というレベルの、知識の問題、技術の問題、関係性の問題です。


罰から逃避する行動を示すことがある
懲罰においてこのような行動が起きれば明らかな弊害ですが、
そもそも、犬に対しては懲罰、 すなわち結果に対しての罰は、無意味であり使用する必要がありません。
強制の罰においては、罰から逃避させることこそが、効果の根源ですから、これは弊害ではありません。
ただし、強制の罰において、教え手の意図する以外の行動を犬にとらせてしまうことが、 初歩的な失敗として
多くみられます。これは正しい方法をきちんと習っていないためともいえます。

人権上、あるいは倫理的観点から社会的に容認できない
見解は人それぞれですが、程度や手段など、使い方の問題ではないでしょうか。

人権に反し、人格を傷つける
状況にもよりますが、人権に配慮して常に相手の理解や納得を得なければならないのであれば、 危険を回避する指導は不可能ともいえます。
そもそもが、体罰を受ける者は、既に自身が他人の人権を侵す何かをしているのではないでしょうか。
加害者の人権ばかりが尊重されることにも大いに疑問があります。
また実際には、体罰によってというよりは、他の罰や、あるいは、勝手に決め付けたり、 人を見下したりといった言動の方が、人格を傷つけることが多いように思えます。

罰では、どうすればいいのかを教えることができない
どうすればいいのかを教えることは罰の役割ではないので当然です。しかし、そもそも罰だけしか使わない人は、まず、いません。

やる気をなくし、対象となっている行動以外の全般的抑制を生じやすい
「やる気」というのは科学的根拠のないもので、行動学を標榜する人が述べるべきことではありません。
また、不都合な事柄に変にやる気があることが問題である場合なども多く、ある面ではそれも目的です。
するべき行動をきちんと教えて、褒めていればやる気はなくしたりはしません。

嫌々するようになる
「嫌々」というのは主観的なものです。
また、状況いかんではありますが、嫌々であろうが、するだけまし、であることも多いのです。
きちんと行動を教えて、じょうずに褒めていれば、嫌々にはなりません。


信頼関係を壊す
「信頼」を認めない、科学的論者が言うべきことではありません。
そもそもが、その程度で壊れるものは信頼ではないのです。

体罰は、信頼関係を壊す
まさにケースバイケースです。体罰が信頼関係を壊す確率が高いケースというのは、 体罰はいけないことである
という思想を教育された人の場合です。あまりいいことではないでしょうが、 体罰は当然だという思想が広まれば信頼関係への波及は少ないことと思われます。
しかしそれ以前に、他の陰湿な罰に比べれば、その可能性は低いかもしれません。
そもそも何をもって信頼関係ができていると言えるのかさえもが非常に難しい問題ですが、
逆に言えば、 それでも揺るがないだけの信頼関係を築き上げておきたいものです。

「罰を与える人」と「罰」が連合し、その人自体を避けるようになる。
まさに、だからこそ関係作りと技術が必要なのです。「罰」を何と連合させるのかも技術です。
また、罰との連合によりその人を避けるようになるかどうかは、その人の魅力と価値、能力次第です。

相手を罰することができるほど、自分は偉いのかが疑問だから
別に、私が偉いから罰するのではありません。偉いか、偉くないかなんてことは、どうでもいいことです。
飼い主の責務は何なのか、責任は誰が取るのかということです。
犬を飼うという時点で、あなたは社会に対して責任を負うのです。
他者への迷惑行為をしていても罰しない 親や飼い主は、我が子や愛犬に対してのことしか考えていない、全くの利己主義者です。
ちなみに我が家の家訓は「自分のことは棚にあげて」です。「自分ができていないのだから」とよく聞きますが、そうだとすれば「聖人君子のような、万能の人」でなければ、他人に注意できなくなってしまいます。
自分がいい年をして未だにできなくて恥ずかしい思いをしているからこそ、 子供には、若いうちにきちんとできるようにさせようと思うのです。自分たちができないからといって、 次の世代の者にもさせずにいたなら、代を重ねるごとに何もできなくなってしまいます。


効果がない、または一時的である。
行動分析学において、効果のないものは「罰」とはいわないはずです。
一時的に見える多くは、一時的なのではなく、効果を妨げる別の強化随伴性が同時に働いているためです。
効果が無いとされるのは、人間がブレーキをかけている間も、犬はアクセルを踏んでいるからです。


体罰の効果は一時的であり、根本的解決にならない。
一時的に効果があれば、ある意味で充分です。
その後についてはその後にどういった指導で効果を維持していくのかという話です。
また例えば、薬なども一時的に効果が表れたからといって完治する前に勝手にやめてしまうと、 ぶり返して、より悪化させることがあります。
これは、適切な用量用法を守らないことに問題があるのであって、薬そのものの害とはいえません。
そして罰の使用目的を考えれば、全ての段階において根本的解決を図る必要があるとはいえません。
それでは体罰に代わる方法は?というと、実際には一時的な解決にすらならない方法が 推奨されていたりしています。
スキナーが指摘した罰の効果への疑問は、その直後の状況だけでしか効果が見られないということでした。
しかしこれについては、どのような罰によって導かれたのかが不明なので反論のしようがありません。
強制の罰・制止の罰・懲らしめの罰のいずれについてのことであるのかが不明確です。
罰の目的はそれぞれに、行動の強制、行動の制止行動の抑止です。
つまり、させること、止めさせること、懲りさせることにあります。
また罰の効果が一時的であるように見える本当の理由は、行為そのものが常に別の強化の随伴性を伴うことによるのです。
無知か作為かはわかりませんが、科学的な理論であれば、これらの強化の随伴性を排除しなければ、罰の効果を判定することはできません。

罰は一時的にしか効果が無い・与え続けなければならない
理論的に言えば、これは「報酬」の方について多く言えることです。
いったん学んだことを守っていれば報酬は与えられなくなったことをすぐに気がつきますが、 罰は、学んだことを守っている限りは、与えられなくなったことに永久に気がつかないからです。
(といっても実際にはそうではありません。というか事柄によって違います。たとえば、本能的行為や欲求の高い行為、無意識に行なう行為であれば、再犯した際に罰が与えられなくなっていることに気が付いてしまいます。ですから行動が習慣化してからでは直しにくいのです。)

A君には「号令に従って行動すれば、良いことが起きる」という方法で、 B君には「号令に従って行動しなければ、嫌なことが起きる」という方法で教え、二人とも、同様に号令に従って行動するようになったと考えてみてください。
この二人に、良いことと嫌なことを同時に無くした時に、無くなったことに気が付くのはどちらでしょうか?
号令をかければ、A君もB君も共に号令に従った行動をします。
A君は次の瞬間には良いことが起きなくなったことに気が付きます。
でもB君は、号令に従って行動し続ける限りは永久に嫌なことが起きなくなったことに気が付かないのです。

罰場面以外での反応が逆に増えることがある
罰せられない場面では、調子に乗って、かえってするようになるということでしょう。
これも、同様の真逆のことがご褒美においてもあります。
打撃系体罰においては、弁別刺激と言いましょうか、犬が罰を受けたことに、 どういった結びつけをするかという配慮に欠ける罰の与え方をしたときに生じます。
また拘束系体罰においては、体罰がたんなる抑圧にすぎない場合に多くみられます。

体罰は、暴力である。
二次性の賞罰を学んでいない人の多くが、このような意見を述べます。
暴力と体罰の違い、鞭と愛の鞭の違いに気が付く機会が無かったのでしょう。
たしかに、体罰と暴力は、「有形力の行使」という点で表面的には同じです。
しかし、暴力が自身の利益を目的としているのに対し、体罰は相手の利益を目的としています。
体罰はすべて暴力であるとするのであれば、注意および叱責のすべては脅迫であるという理論になります。

体罰は暴力を肯定するように教える。
「体罰は子どもに、悪いことをする人がいたら殴ってもいいのだと考えさせてしまい、暴力を肯定するようにさせてしまう。
つまりは、体罰というのは、気に入らない相手に暴力をふるうことを肯定する教育である。」 といった意見があります。
しかし、そもそも体罰は、相手が気に入るか気に入らないかという基準でするのではありません。
また、この論法でいくと、退学処分は、人間を排除することを肯定する教育ということになります。

体罰は、身体を傷つけたり、怪我をさせたり、または命を奪うことさえもある。
たしかに、大きなリスクを背負います。だからこそ使わない人が多いのでしょう。
しかし教育においては、教えないままに容認することが将来にもたらす害とを比較すべきでしょう。
負傷させたり、死なせたりすることは、体罰の使い方が不適切ということであって、体罰そのものを否定する話ではありません。
また、それらは体罰に限ったことではありません。
古い歌になりますが、「体の傷なら直せるけれど、心の痛手はいやせはしない」という歌詞もありました。

体罰は、子どもの心に傷を負わせる。
心の傷という点では、精神的な罰の方が、むしろリスクがあるのではないでしょうか。
体罰以外の罰においても、心を傷つけ病気にさせたり、自殺に追い込んだりという事例はいくらでもあります。

体罰は感情的に行なわれがちである
多くの現実を見れば、原則的には賛成できる意見です。 指導者の人間性の問題でもあります。
ただし、「体罰がいけない」のか、「感情的に行なうことがいけない」という話なのかがよくわかりません。
考えてみれば、体罰に限らず、叱るという行為全般が、感情的に行なわれがちなのです。
別に体罰だけが、感情的に行われるわけではありません。
かっとなったときに興奮して相手を傷つける言葉を吐いてしまう人もあります。
逆上して怒鳴って追い出したり、お前なんかクビだと言い出したりする経営者だっています。体罰であろうがなかろうが、感情的になるときは
なるのです。そもそもが相手の悪行こそが、叱る人を感情的にさせているのです。

体罰はエスカレートする
別に体罰だけがエスカレートするわけではありません。
でも、エスカレートするのは人間の「感情」と「支配欲」なのです。この際にエスカレートするのは罰を与える人の感情なのですから、体罰ではなく他の方法、 例えば口頭で叱っても言葉や語気は次第にエスカレートします。
部屋に閉じ込めるなどの罰にしても、 閉じ込められた側の反抗が大きければ、閉じ込めておく時間が長くなるなどとエスカレートしていくのです。すなわち、体罰であろうがなかろうが感情的になれば、それらはエスカレートしていくのです。
そもそも、感情の発散であるのなら、その時点で体罰ではなく暴力です。

罰により効果があると、与える側の強化となり、類似の事態で多用しがちになる。
これは、罰は悪いことという前提の話で、効果があって多用すること自体は悪いことではありません。

罰は一時的な効果があるので癖になる性質があり、罰に頼ってしつけるようになる。
「一時的な効果がある」「頼るようになる」「癖になる」どれも悪いことではないはずです。 賞でも同じです。
体罰は効果の減少に伴い、より強い効果を求めてエスカレートする。
繰り返すうちに、さらに強い刺激の罰を使うようになるということで言えば、 これも罰全般において言えることでとりわけ体罰だけが否定される理由にはなりえません。
社会一般において、もっとも冷静かつ公平なものと思われるいわゆる懲戒規定なども、 訓告に始まり、戒告、出勤停止、解雇、懲戒解雇といった具合にエスカレートしていきます。
エスカレートするからいけないという理由であればこれらの懲戒制度も廃止しなければなりません。

体罰を受けた子どもが、暴力によって解決することを学習し、暴力の連鎖を生む。
「体罰の連鎖」を例にあげて、体罰が、いかに悪いものであるかが言われます。
しかし、連鎖するから悪いことであるという論法はおかしなものです。
自分がされてきたことを、将来は自分がするようになるということは、むしろ普通にあることです。
「連鎖」であるとか、「伝承」や「継承」といった言葉で表現されます。
連鎖する、真似する、エスカレートするなどは、そのこと自体に良い悪いはありません。
「何が」の部分が、悪いことなら悪いのだし、良いことなら良いのです。
良いか悪いかを判定する議論の際に、連鎖するから、真似るから、エスカレートするからという理由で、悪いことだと決めつけることは論理破綻しています。
「子供の頃に○○を受けて育てられた子は、自分が親になった時、我が子に○○をもって指導するようになる。」これは、「一般的にものごとというものは連鎖するものである」ということを述べた文章ですが、○○の部分に、まず虐待という語を、次に愛情という語を入れて考えれば一目瞭然です。

暴力による解決は、暴力しかうまない
私たちが想像しうる最大の暴力といえば原爆です。
個々人は当然にそれぞれですが、国家単位で見たときに、その暴力を受けた我が国は、その後に原爆の製造に取り組んでいるでしょうか? 
逆に阻止すべく活動をしています。
暴力をふるった相手、すなわちアメリカに対して、敵対心で臨んでいるでしょうか?
むしろ逆に、終戦から現在まで政権が変わろうとも一貫して、同盟国、あるいは友好国となっています。

暴力を受けたものは、弱い者に暴力を向けるようになる
これも先程の○○を用いれば同じ解説ができます。
○○に暴力という語を入れれば悪いことに思いますが、慈愛という語を入れればよいことに思えるのですから。
先程の続きで言えば、日本が戦争に負けた後、弱小国に戦争を仕掛けようとしたでしょうか?
ほとんどの人は自分がされて嫌だったことは、他の人にはしないようにしようと思うのではないでしょうか。
実際に詐欺にあった人のうち、果たしてどれほどの人が今度は騙す側になってやろうなどと思うでしょうか?


強い者や上の者にはしないのに、弱い者や下の者にはすることが問題である
しかしその論法では、「食事を奢る」という行為も、いけないことになってしまいます。
なぜなら通常は、部下におごることはあっても、上司におごることはまずありません。
似たような意見で「体罰は、相手の方が弱く抵抗出来ないことを前提にしてなされる。
それは自分が強い立場にあれば、暴力を振るってもいいということを教える。つまり、自分より弱い立場のものには暴力を振るってもいいということである。また、力による抑圧は、必ず弱いところへはけ口を求める。」と述べた方もいます。
これは体罰の是非というよりは、支配行為の是非を問う話でもありましょう。
権力行為、すなわちパワーハラスメントや、経済制裁などでも同じことです。
つまりは、「暴力」も「武力」も「経済力」も「権力」も、全てに同じなのです。
もしもこれを理由に体罰を否定するのであれば、支配行為自体が否定されることであり、社会そのものの秩序が成り立たなくなることなのです。

限度を超えての強い罰は、攻撃性や、情緒的行動をひき起こす。
限度を超えてしまえば悪い結果をもたらすのは、薬であろうが健康食品であっても、運動であっても同じです。
美味しいカルピスだって、原液のまま飲まされればいじめです。

罰は、与えるタイミングや程度が重要である
当然です。だからこそ、きちんと勉強する必要があるのです。同じことは賞にも言えます。

悪い事をしたことのみを教えるのではなく、その代わり何をすべきかを同時に教える必要がある。
 当然です。
何をすべきかは、同時にではなく、むしろ事前に教えておくべきです。

繰り返し与えてばかりでは、その効果も期待できない
その通りで、罰は繰り返して使うべきものではありません。
犬の訓練における体罰の使用の原則は、ただの一度のつもりで、初回に最大のものを与えることです。
ところが、強すぎれば当然に害にしかなりませんし、罰を与えるタイミングその他の重要な要素もありますから、そうそう容易ではありません。

小型犬の場合、力の加減が難しい。
まさに、はぁ?としか言いようがありません。だからこそ、勉強してください。

学習性無力感をもたらす
学習性無力感とは、主体の行動に対してそれに随伴した結果が得られない時、個体は統制不能性を抱き、無力感に陥ってしまうことです。
学習性無力感という言葉が何とも言えぬ負のイメージを持たせますが、 言葉を変え、ある見方をすると、あきらめを身につけさせることであり、これは有意義なこととも言えます。
似たような言葉で我慢があります。我慢が大切ということには、多くの人の賛同を得られることでしょう。
しかしながら、我慢は欲求を抑えるのでストレスになってしまうこともありますが、あきらめは、欲求そのものを消失させるのでストレスとならないという長所もあります。

行動を全体的に抑制、いわゆる無気力を引き起こすことがある
薬物療法による弊害としてこのような状態になったケースは実際に見知っていますが、体罰によって、このレベルまでの弊害をもたらした犬を、私はこれまで一度も見たことが無いのでわかりません。保護してきた犬についてこのような説明を受けたことはありますが、保護した人の話も伝聞を重ねたもので、実際に罰を受けたことが原因である根拠は全くありませんでした。
非常に変なことを言いだしますが、もしも他の弊害を起こさずにこの弊害だけが表れるのであれば、真剣に安楽死以外に道が無いほどの問題犬にとっては、考えようによっては十分な成果かもしれません。



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