「なぜ人を殺してはいけないのか」と聞いたところ、多くの人が理由を答えられなかったという話があります。 理由はわからないままにいけないと思い込んでいるのです。
しかし実は、これこそが大切なのです。 理論で否定されたものは、別の理論で肯定されてしまうからです。 相手を説得するのにもっとも難しいのがウーマンズ・リーズンだといわれます。 「嫌なものは嫌なの」こう言われてしまうと、いかなる正論も門前払いです。
それでは、善悪の意識というのはいつ頃どのようにして身に付くのでしょうか。
善悪は、外部への自己の主体的働きかけにより起こる外部の反応を、 自己の内部に還元することで構築されます。
すなわち、自らが行なった行動が、自らの身を置く環境に受け入れられたか否かによって形成されていくのです。
善悪の判断をする際の基準を育むには、いけないという事を無意識化させることが重要なのであり、 ゆるぎない善悪の認識を身に付けるのは、理由などわからないうちの「怒られた」と感じる経験なのです。 「怒られる」という体験によって、犬の潜在意識に「してはいけない認識」を刷り込ませるのです。 人間であれば「叱られる」という行為によって、「してはいけない理由」を意識させるのです。
「人を噛むことはいけないことだ」ということを伝えるときに、噛んではいけない理由を説明したり、 理解させようとしたりする必要はありません。
人間の子供にであっても、言葉を理解できないうちは、 何故いけないかよりも、まずは、とにかくいけないということを伝えようとします。これは、言葉を使っての意識上での理解を求めるのではなく「それは悪いことである」ということを潜在意識に刻み込もうとするのです。こちらの意図がどうあろうとも、相手はどうせ「怒られた」と感じるのですから、ある意味、叱るであろうが怒るであろうが、どちらでもいいことになります。
しかし、「叱ろうとも、怒るな」というのは大切なことです。 ひとつには、感情的になって制御が効かなくなる
ことを戒めること、そしてもう一つには、一貫性を保つため、すなわち、本来は事象によって行なうべき叱責が、
教え手のその時々の気分で、叱ったり叱らなかったりにならないようにという事によるものです。
このようにこれまでは、「ほめる」「叱る」を繰り返すことによって、ものごとの善悪を認識させてきました。 昨今の風潮のように叱ることをいけないこととされたら、善悪の認識をどのようにして教えていくのでしょうか。
常日頃、指導として、相手のために叱っている人は、叱ることをいけないことだとは考えないでしょう。 おそらく「叱ることはいけない」と考える人は、 ご自身が誰かを叱る際に、ただ単に、自身の怒りを相手に ぶつけているだけなのではないでしょうか。
それゆえに、叱るという行為の本質を、歪んだものとして認識してしまっているのでしょう。
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