おそらく人間には、他者と共感することで心的快感が得られるという脳内報酬機能が備わっているのでしょう。 知らぬまに、他者の心の中を理解できていると思い込んでしまっているのかもしれません。 それゆえ犬に対しても、人間を基準とした認知や思考を、そのまま当てはめて考えてしまいがちです。
当たり前の話ですが、犬にとって最も自然な方法こそが、犬には最も理解しやすい方法であるし、 犬にとって受け入れやすい方法なのです。 鳥類の配偶者争いにおいては、ディスプレーによる決着や、 貢物による決着も見られるようですが、人間以外の動物では、対立の解決は闘争での決着がもっとも普通です。
といっても、むやみに闘争を行なうわけではありません。本当の敵は他にいるのであって、 同種における争いで負傷すれば、次に外敵に出会った際に簡単に倒されてしまうからです。 それゆえに、相手に出会った瞬間に、敵か獲物か無関係かの判断、そして同種においては仲間か敵か、 どちらが強いかの判断をするものと考えられます。
当然に犬も例外ではありません。 犬は初対面の相手に対し、出会いがしらにいきなり咬み付くことはあまりありませんし、 本来なら、むやみには喧嘩をしないものです。 しかしそれは、いけないことだからしないのではありません。
また、本能的に負けると感じた相手との争いは回避します。 主張が対立した時には、自分のほうが強いと感じた相手にも、最初は威嚇をもって従わせようとします。 しかし相手が従わない場合には、攻撃を仕掛けます。喧嘩になるのはお互いが自分の勝利を予見した時か、 相手が勝利を見込めないにもかかわらず行動を回避しなかった場合です。 このようなことは、弱い側が、種としての掟を身に付けていない場合において多く見受けられます。
「力による決着はいけない」と思うこと自体が、まさに人間ならではの発想です。 犬は力による支配を、いけない手段だと思っていないのです。 なぜなら犬は本能的に「力による決着」を抵抗なく受け入れることを身に付けているのです。
同じに哺乳類の動物であっても、生来の習性が単独生活を送る社会性のない動物や、 横並びの集団を形成する動物であれば、人間がその動物を支配することはある意味で困難でありましょう。 しかし犬は、上下関係のある集団を形成する社会性のあるイヌ科の動物から家畜化された動物であり、 強者やリーダーに従うことは、むしろ本能の一つであるとも言えます。 犬は人間の感情を認知する能力を有しており、異種な動物である人間に対しても、 あたかも同種の仲間に対すると同様の支配従属関係を築きます。
そもそも人道的・道徳的・倫理的といった、 犬には非常にわかりにくい人間的な概念を押しつけること自体が、人間の傲慢や偽善なのです。 相手の立場に立ってと言いながら、全く犬の立場になって考えていないのです。 犬の身になって考えるのであれば、犬にとって最も自然かつわかりやすい方法は、力による指導です。 力による支配と聞いただけで、殴る蹴るといった暴行や、恐怖政治を連想することがおかしいのです。 そもそも、強いものが敵なら怖いし味方なら心強いのです。 身の処し方を身に付けてしまえば何ということもありません。
犬には人間のような倫理や道徳はありませんし、そもそも犬には暴力などという概念はありません。 犬同士のけんかに巻き込まれてみればわかりますが、犬の咬む力は相当なもので、 通常の人が叩く強さなど痛みのうちには入らないほどです。 犬と人間とでは痛みに対する感度が全く違います。 犬が嫌がる多くの場合は、実際の痛みであることよりも、怖いことによるものだと思われます。 この点を見誤ってしまうと、叩くのはかわいそうだからといって、叩く真似だけするといった、 犬に、より残酷な行為を平気で、いやむしろ優しさのつもりで、しでかしてしまうのです。
人がどれほど犬を擬人化して考えようとも、犬はイヌです。犬は人前で交尾することも、うんちを食べることも、泥だらけになることも、でこぼこの地べたで寝ころぶことも全く平気なのです。
力に対する拒否反応をお持ちの方が、非常に多くいます。 力と聞くとすぐに暴力を思い浮かべる人が多いようですが、私が子供の頃には、父親と相撲を取って遊ぶ中で、 親には絶対にかなわないと思い込んだものです。 自分が成人し、親が年をとった今、力であれば親よりも強くなっているはずなのですが、子供心に植え付けられた意識は容易に塗り替えることは困難です。
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