犬を飼うということ、それは紛れもなく、犬という動物を管理し支配することです。 犬を自分の支配下に治めていることにさえも気がつかずに、あたかも自分は犬と対等の立場にいるかのように 思っている人もいます。 個人的には、圧倒的な支配をしている張本人から「自由です、対等です」と言われるほど嫌なものはありません。
犬を飼うということは、居所も採食も繁殖も、それら一切を人が支配しているのです。 そして私たちは、管理し支配することによって、犬に食と安全を保証しているのです。
過剰な平等主義者で、犬と対等の関係を築くべきだと訴える人がいます。 そうした人は、支配あるいは強制という語を用いる際に、いかにもイラクや北朝鮮を連想させるような表現を、 また叩くという語を用いる際には、あたかも虐待と同義であるかのごとき表現をするのです。 犬に対して常軌を逸した命令に従わせるのであれば、問題視する必要があるでしょうが、 通常な生活でのルールに従わせることに対してまでも、ヒステリックな反応をすることには理解できません。
動物愛護については、議論を重ねれば、行きつくところはベジタリアンになってしまいますし、 家畜の存在はもとより、また、犬に限らず動物を飼うということそのものがありえないことになります。 害獣の駆除も、絶滅危惧種の保護も全て、実は生殺与奪の権力に奢る人間による支配行為なのです。 絶滅危惧種の動植物の保護も、絶滅が進化の一過程であることを考えれば、人為的、反自然な活動となります。 産業革命以降の文明が、加速的にもたらした自然破壊による絶滅は、人為的なものなので防がなければならないとされていますが、それさえも巨視的に見れば、地球上の生態系における生物の進化の一つなのかもしれません。
私たちが努めるべきことは、管理や支配を否定することではなく、より良き管理者、より良き支配者になること なのではないでしょうか。
人間と野生動物は、繁殖相手を自分たちで選びます。 家畜と言われる動物だけが、人間の意志・管理において繁殖相手が決められます。 人間と同列に、また、野生動物と同列に考えてはいけない最大の理由がここにあります。 犬を含めた家畜の繁殖は、人間の都合によって、そのすべてが決められ行なわれます。
動物の愛護や福祉を語る上で、明らかに矛盾する根底がここにあります。 家畜においては、本来の姿というのがどこにあるのかが見えなくなってしまうからです。 種の原点である動物の本能や習性を言うのか、改良されて作り上げられた現在の本能や習性を言うのか、 改良が目指すところの理想の本能や習性をいうのかということです。 人間がわがままであるからこそ、従順であることを求められ、現在の人間に愛される犬ができてきたのです。
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