犬への「しつけ」は教育です。教育とは、教え育てることです。
外部である社会の規律と、自身を制御する内面の規律、そして、この二つを調和させるための関係性の確立。
この三つを身につけさせる事が、教育の基本的な目的でしょう。
教育を行なう主体としては、家庭教育・学校教育・地域教育・社会教育などがあり、
このうちの一つ学校教育だけを見ても、学問に代表される知育だけでなく、体育や徳育などもあります。
学問のほんの一分野にすぎない「科学」で、学問はおろか、広範な教育までをも全て解明しようとすることに、
そもそもの無理があります。教育は科学ではありませんし、科学的である必要もありません。
科学は万能ではありません。宗教や芸術、道徳を科学で教育出来ようはずがありません。
学校教育における体育とスポーツとでも大きな違いがあります。
体育とは、身体運動を媒介として人間形成をめざす教育的な営みであり、そこから発生したのがスポーツであってスポーツは、娯楽や競技、あるいは職業なのです。
スポーツにおける体力の増強や、技術の修得であれば科学的手法によるトレーニングが有効です。
武道も科学としてしまえば、スポーツになります。柔道とJUDOの違いとでも言いましょうか。
しかしそこに求められるものは、競技としての勝利と、勝利のためのテクニックとなり、武道が本来持っていた
精神論や礼節は、次第に軽んじられていきます。
人間の教育においても同じですが、教育=科学ではありませんし、ある必要もありません。
もちろん科学的な根拠に基づく指導方法が合理的であることに異論はありませんし、合理的、効果的、教えやすい理解しやすいといったことは大変に大切です。 そもそもなぜ、教育が科学でなければいけないのでしょうか。
そもそも、科学的でないことが、あたかもいけないことのように広める人の思想に疑問を感じます。
「科学で証明されていません」というのは、ただ単に、研究の対象となっていないか、研究結果がまだ出ていないということで、正しい、正しくないという話ではありません。
ときどき耳にする「最近の科学研究でこれまでの定説が誤りであることが明らかになりました。」ということは、 新たに認められた定説も、いずれ同じことが言われるのでしょうか。
そもそも、科学が不変の真実であるならば、科学に進歩はありません。
科学的を標榜しつつ、犬の気持ちをというのであれば、そのトレーナーは、無知か嘘つきか商売上手です。
ほとんどの人が、「行動の原因は、こころの中にある欲求である」と感じているのではないでしょうか。
しかし、行動分析学においては、「こころ」「欲求」といった目で見ることのできない全てのものを排除して、
観察可能な事象だけで結論づけをしなければなりません。
証明することができないがために、実際にはあったとしても、それらは無いものとして結論を導き出すのです。
有っても無くても同じ結果である事象であれば成り立つとしても、それで全てを究明できるわけではありません。
なぜなら、世の中には、存在していても、目に見えるものと、見えないものとがあるからです。
たしかに目に見えないものというのは、私たちにとっては、第三者に伝えにくいし、量ることもできないため、
証明しにくいものです。だからといって、見えないものは無いものとしてしまってよいのでしょうか。
原理の究明のためには良いのでしょうが、現実の教育までもが、そうであっていいはずがありません。
「見えないけれど、あるんだよ」、テレビCMでもありました。
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