550二次性の罰
二次性の罰    叱 る  


552叱ると怒る
叱ると怒る
  「叱る」と「怒る」(しかるとおこる)

「怒鳴る」とか「叩く」という行為だけをとらえて、短絡的に「怒っている」と思ってしまう人が多くいます。
怒鳴られたら、それは怒られたということでしょうか。
教える内容によって、瞬時の指導を必要とする場合や危険を伴う場合には、言葉が短く早く強くなります。
騒音の激しい場所や、あるいは離れていれば当然に大声をだします。
はた目には怒鳴っているように見えても、誤りを指摘しているだけの場合もあります。
またあるいは、その人が、単に自己の感情をコントロールできずに興奮しているだけかもしれません。

叩くという行為も、暴力であったり体罰であったり、 またそのそれぞれが、「行為者の思い」と「受け手の思い」が異なっていたりすることがあります。 叱るのは指導の一つで、相手が何かいけないことや失敗をした時であり、怒るのは感情の一つで、一般には自分が不利益や不快を被った時です。
そして「叱る」「怒る」というのは、いずれも相手に対し主張することです。
本来「叱る」は「社会のルール」を、「怒る」は「自分の不快な感情」を相手に主張する行為です。

「叱る」と「怒る」が混同される理由のひとつに、行為者と受け手とで、言葉が代わることがあるからです。
「叱る」という言葉は受動態では「叱られる」なのですが、 実際には、叱られた多くの人が怒られたと感じたり、「怒られた」と表現したりするのです。
今の世の中は「誤りを指摘される」「注意される」「叱られる」「怒られる」の、区別のつかない人だらけです。こちらが「叱った」にもかかわらず、多くの人が「怒られた」と感じたり表現したりします。

では少し叱られた側の立場に立って考えてみましょう。
このように思うのは、自身の正当性を保つために、相手の感情のせいにしようとする解釈ともいえます。
相手が「叱られた」と感じるのは、その事柄の善悪について共通の認識があり、相応の罪悪感がある場合です。
簡単にいえば自分が「してはいけないことをした」と思っている場合だけです。
それ以外の場合、すなわち、その事柄について悪いことであるとの認識が無い時、または、自分が悪かったことを認めたくないときには、「怒られた」と感じたり、表現したりすることが多いのです。

では、まず前提となる善悪の共通認識はどのように身に付けていくのでしょうか。
善悪の基準というのは普遍的、絶対的なものではなく、その社会で受け入れられるかどうかによって決まります。 次に「してはいけない」という認識はどのようにして植え付けられるのかを考えてみましょう。
してはいけないと認識するまでは、当然に「してはいけない」と思っていないのですから、叱ろうが怒ろうが、
相手は「怒られた」と感じるわけです。
そして自らの、「怒られた」という体験を通して、「してはいけない」という事を学び、身に付けていくのです。すなわち、ある行為をしたときに怒られることにより、その行為はいけないことなのだと認識し、 認識した後は、その行為を行ったときに「叱られる」ことによって、いけないことをしたと意識するのです。  



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