何でもかんでも強制したり、やみくもに殴ったり蹴ったりする訓練士がいることは事実です。さらに言えば、
実際に行なわれている体罰のほとんどが無意味であったり、好ましくないものであったりすると思っています。
しかしだからといって、体罰そのものが無意味であるとか、体罰がいけないことであるとか、
体罰を禁止すべきものであるとは考えません。
体罰は禁止とするがために、公に話し合われることがない現状の方が、はるかに問題なのです。
むしろ、体罰は指導方法の一つとして認めた上で、使用事例の効果と弊害をきちんと検証する方が重要でしょう。体罰を用いた指導についての目的と効果、また、使用にあたっての前提・方法・場面・程度・事後などについての検討を行なうことにより、その技能を安全かつ効果的なものに高めていくべきだ、というのが 個人的な意見です。
とくに一部にみられる拒絶的な、あるいはヒステリックなまでの体罰禁止論には到底に賛同できません。
体罰=悪いこと=禁止という短絡的な発想こそが危険なことだと思います。
行き過ぎた弱者保護が、弱者という名の強者を産み出し、その横暴を制御できなくなっている現実さえあります。「おまえがやったら暴力教師で首だぞ」と言って教師を足蹴にする生徒に対し、為す術を失っている学校教育。
ぶつけられるものならぶつけてみろと、信号を無視し、車道を逆走する自転車乗り。
飼い主に咬みついてくる犬に対してまでも、「体罰は暴力であり、信頼関係を壊すので行なってはいけません。」
というトレーナーも、同じようなものではないでしょうか。
体罰と聞くと、すぐに虐待を連想する人がいます。連想どころか、混同している人も少なくありません。
虐待を行なう者が、決まって「しつけのために叱った」と、言い訳することも原因でしょう。
虐待は明らかな犯罪であり、許されるべきことではありません。
しかしながら、虐待には身体的虐待のみならず、性的虐待、心理的虐待および放棄なども含みます。
となれば、体罰と聞いて虐待を連想する人は、無視という言葉を聞いたときにも虐待やいじめを連想すべきです。 身体的な罰(体罰)とは、管理責任の下にある相手に対し、教育的名目により、直接的(暴力)または 間接的(拘束)に肉体的な苦痛を与える罰を加えることをいいます。
まずは、「体罰の禁止」が叫ばれる中で、「体罰以外の罰は良いのか」、という疑問があります。
もしも懲罰の一切がいけないというのであれば、その議論そのものを見直さなければなりません。
そしてもしも、体罰だけがいけないというのであればその理由は何なのでしょうか。
体罰をいけないとする理由はあちこちで色々と述べられていますが、いずれも「体罰は」と書かれている言葉を、それ以外の罰に置き換えても同じに成り立つものばかりで、体罰だけがいけない理由にはなりえません。
体罰を容認するその他の理由
・体罰と他の罰は、ある意味で同じであり、体罰だけを禁止する理由がない。
・他の罰は、一般に加罰の意識が薄く、信頼関係の構築や維持に影響を与える。
・他の罰が若干強く行なわれても、体罰をするよりましだ、と錯覚してしまう。
・技術としての発展がなされない。
・禁止することによって、体罰が悪質化する。
・隠蔽や潜伏により、不適切な体罰の使用が排除しにくくなる。
・体罰の禁止は、虐待の増加につながる。
暴力がいけないことと考えるのは地球上でおそらく人間だけ、それもごく近代の人間だけです。
別に暴力を肯定する気持ちなどありませんが、犬にとっては理解しやすいものであることは確かです。
適切な体罰であれば、それによって犬が人を怖がるようになったり、信頼関係を壊したりすることはありません。
もしあるとすれば、それは繁殖者に苦情を言うべき犬の稟性上の問題です。 ところが一般的に、身体的な問題点に
ついては繁殖者に責任を問うケースが多いのに比較して、稟性面での責任を問うケースはほとんどありません。
もちろん稟性に関して苦情を言おうにも、どうしても主観的要素が多く、また因果関係の立証が困難なために無理であることは当然のことです。しかしそれ以前に、稟性面の欠陥は、繁殖者の責任であるということをわかって
いない方がほとんどなのです。
使い方によって、報酬は怠慢を生みますし、報酬に罰せられることもあります。
意外に思うかもしれませんが、報酬と罰は表裏一体のものです。
罰について述べられることのほとんどが、報酬においても同じことが言えます。
「罰を与える人のいうことはきくが、それ以外の人の言うことはきかない」という文章は、
「報酬をくれる人のいうことはきくが、それ以外の人の言うことはきかない」と置き換えても成り立ちます。
無意味に、無駄に、罰を使うべきではありません。
私は、罰容認主義ですが、決して推奨するわけではありません。
いかに罰を少なく教えるか、そして同時に弊害や副作用をいかに防ぐかが、訓練士の技術であると思っています。 |