200こころを育てる
こころを育てる


205内面を育てる
内面を育てる
  しつけは教育であって、芸を教えるいわゆる調教ではありません。
見た目の形だけで、「スワレ」という号令で犬が座り、「フセ」という号令で犬が伏せればそれでよし、というのであれば、それは単に芸を教え込んだに過ぎません。
九官鳥のキュウちゃんがオハヨウと挨拶したり、お猿の次郎君が反省してみせたりするのと同じことです。


教育には、知育・徳育・体育、すなわち、知能の成長・心の成長・体の成長とそれぞれに必要な教育があり、
また同時にそれぞれの教育に適した時期というものがあります。

人間の子供に関しても、早期教育については、その意義や効果に意見が分かれます。
しかしその多くが、知能開発を目的とした先取り学習に対する是非であり、基本的人格が作られる乳幼児期に行われる教育が、知育に偏重することへの疑問でもあります。

人は、自己の欲求や意思と他者のそれらとが葛藤する場合、内面化した行動規準に照らして、自分の行動を制御しています。 自己制御機能の獲得過程は、行動規準が獲得される過程と、その行動規準に合わせて自らの行動を統制する過程との2つに分けて考えられます。自身が意識的に行なった行動に対して、もたらす結果に応じてその後の行動に変化が生じます。

子犬にまず教えるべきことは、人を好きにさせることと、人に身を委ねることです。
子犬自身に戦いを挑むという意識はほとんどありませんので、「挑戦」という言葉を使うと違和感がありますが、犬と遊んでいる中での、子犬のさまざまな試みに、人がどう対応するかで全てが決まります。

犬にとってもっとも自然な方法は、力で抑え込まれることによって相手の強さを知り、頼りがいを感じるのです。
これこそが信頼の「頼」なのです。
力の弱いまだ何もわからない子犬を、力ずくで抑え込んだりしたら性格が歪むであるとか、信頼関係を壊すなどという馬鹿げた意見を言う人がたくさんいます。
壊すも何もなく、最初なのですから、まだ信頼関係など無いのです。
個人的なことですが、私は子供のころから、私の事を何も知らないくせに「信頼しているよ」と言ってくる大人を信用できませんでした。

力の弱いうちだからこそ受け入れることができるし、どなたにでも行なうことができるのです。
何もわからないからこそ、子犬にもわかる本能である「力」をもって教えるのです。
何もわからない時期だからこそ、当たり前のこととして素直に受け入れ身につけることができるのです。
だいたいそんな程度のことで歪む性格の犬であるなら、稟性欠如であり繁殖者にクレームをつけるべき問題です。
もっともそのような犬を繁殖し平気で販売するような人では、クレームの本質を到底理解できないでしょうが。

強いものを恐れると同時に、強いものに惹かれるのが、犬の持つ自己保存本能なのです。
人間がいかに道徳観や倫理観から否定しようとも、イヌという動物にとって身体的な力こそがもっとも魅力的な能力なのであり、理解しやすく、受け入れやすい能力なのです。
「強いものに従う」ということは、ただ単に怖いから従うのではなく、逆に安心できるから従うのです。

人間の手は神の手であることを教えるのは、認識の特定化ができる以前に行なうことがポイントです。

脳の回路には、或る一定の時期までに必要とされないものは発達過程で淘汰されるものもあります。
情緒的な情報の処理に、若者は怒りや恐怖などの本能的反応を支配する小脳扁桃を利用しますが、成人の脳では、論理・理性・倫理を司る前頭皮質で行ないます。
これは、前頭皮質が小脳扁桃以上に連結を強化し優勢になり、小脳扁桃の働きを抑制するためです。

徳育で必要とされる自己抑制能力や共感能力を司るものは、大脳前頭葉(眼窩前頭皮質)の発達であり、この臨界期は3歳であるといわれています。人間でいえば3歳までに十分な愛情をあたえることと、きちんと忍耐力を身につけさせることが、眼窩前頭皮質を発達させる重要な要素なのです。
知育のみに偏重し大脳新皮質の活性化に伴う連結をいくら増加しても、この眼窩前頭皮質の発達が不十分だと、大脳新皮質に蓄積されたどれほどの理性的知識も、大脳辺縁系の衝動的行動を制御できないことが起こるといわれます。昨今見られる「優等生が突然にキレる」についての科学的な見解です。
 




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