個々の自由を認めるのは素晴らしいことです。 しかし、その自由が誰かの求める自由と相反した時にどうすればよいのでしょうか。
他者の自由勝手な振る舞いが、全く気にならない寛大な人なら問題ありません。 しかし、他者の身勝手な行動に怒りや憤りを感じることは、人として、ある意味当たり前のことでもあります。 叱ることどころか、注意することさえも躊躇する風潮が、現代社会のフラストレーションを生み出すのです。 そもそも、傍若無人な振る舞いを止めさせるために、何で相手の同意を得る必要があるのでしょうか。
迷惑をかけている人と、迷惑を受けていると人が、対等に話し合わなければならないのであれば、 迷惑は掛け得の世の中になります。 たしかに干渉されることは嫌なものです。しかし争いを避けることだけを優先して、誰もが主張をしなくなれば、それだけ人間関係が希薄になり、孤独をうみだしていくことにもなります。
私自身、犬をしつけるにあたっては、その犬を人に好かれる犬にしようと思うのであって、 私がその犬に好かれようなどとは思いません。自分が好かれようと思うところからして、 訓練そのものが、犬のためではなく自分のためになっているのです。 自分は嫌われてもいいからという思いが、結果として犬に好かれるのです。
無関心社会といわれる現代ですが、一部には過干渉といえる人たちもいます。 無理強いの段階で、かわいそう、虐待だと騒ぎだす保護者がいます。 そしてそれに便乗する外野や騒ぎ立てる輩がいて、万一生徒が怪我でもしようものなら、すぐに責任問題、 賠償問題となって、そこには金の臭いをかぎ取ったハイエナどもまで集まってくる、そんな時代です。
私は、初めに犬に語りかけます。 人間はとても寛大で、とても冷酷なのだよと。 人間の優しさに甘えてしまうと、とんでもない目にあうことを。 それは、観光地の餌付けされた動物たちの末路をみれば明らかです。 人間は勝手に可愛がっておきながら、何かがあれば、ある日を境に突如、害獣として追い払うのです。 小さいうちや自分に余裕のある間は好きにさせておいて、手に負えなくなるとポイです。
一部の人たちからは、動物福祉の先進国のように思われているアメリカですが、3歳未満の犬の死亡理由の トップが何であるかを調べてみるとよいでしょう。
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