教わる事柄による違い 「なにを」「なんのために」「どの程度に」教えるのかによっても、選択される教え方は違ってきます。 教えるのは行動か、心か。 外面の行動を教えるのか、内面の心を教えるのかによる違いが、教育か科学か、という見解の違いを生み出します 。 犬に教えることと言えば、「姿勢」や「動作」を教えることが一般的でしょう。 しかし、教えるのはそういった「行動」だけではありません。 たとえば犬にトイレを教えるといった場合、通常はおしっこやうんちをするという「行為」ではなく、 トイレ場で、という「場所」を教えるのです。 また、ハウスの中で粗相をしてしまう犬に対しては、ハウスにいる間はしないようにという「我慢」を教えます。 それ以外にも,生活ルールを教える、主従関係を教えるなどは、全く質が違います。 外面=すなわち「行動」といった、目に見えるものを教えるのであれば「科学」 内面=すなわち「心」といった、目に見えないものを教えるのであれば「教育」 心と行動、このどちらを教えるのかによって、多くの方法論の違いが生じます。 科学は、観察可能な客観的事実によってのみ成り立ちますので、 そもそも内面的なことを教えるという発想そのものがありません。 科学的トレーニングというのは、我慢・信頼・服従心など内面的なことを一切排除した理論なのです。 有名な「星の王子さま」のせりふで言えば、 「心で見なくちゃ、ものごとはよく見えないってことさ。かんじんなことは、目には見えないんだよ。」 例えば「マテ」は、動くという行動を止めるのではなく、動きたい心を止めるのです。 見た目に「停まっている車」といっても、パーキングギヤでサイドブレーキをかけてエンジンのかかっていない車、ニュートラルギヤでサイドブレーキをかけていない車、エンジンがかかっていてブレーキを踏んで停まっている車、 エンジンをかけた上でアクセルとブレーキを目一杯に踏み込んでいる車となどでは、 どの車も止まっていることは同じでも、それぞれに全く違うのです。 その違いを心得ておかないと、 するように教えるのか、しないように教えるのか。 ほめて教えるのか、叱って教えるのか、について大きく意見が分かれます。 しかしこれは馬鹿げた議論で、なぜなら、ほめて教えることを否定する人はまずいません。 つまりこれは、叱って教えることについての賛否に他なりません。 私たちが犬に教えたい事には、何かをするようにというものと、何かをしないようにというものの二つがあります。 同じに行動を教えるといっても、ある行動を「すること」を教えることと、ある行動を「しないこと」を教えることとでは、ある意味で真逆のこととなります。それなのに、その区別をきちんとしないがために、ほめて教えるべきか叱って教えるべきかなどという、あたかもどちらかを選択させるような、ばかげた議論がおきるのです。 そして同じように、「ほめること」と「叱ること」は、役割そのものがまったく正反対に異なります。 「ほめること」は何かをするように、「叱ること」は何かをしないようにというのが役割です。 自転車に例えれば、ほめることはペダル、叱ることはブレーキに相当します。 |
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教えるということの難しさは、教える内容の難しさとは一致しません。 わかりやすくいえば、小学一年生の先生と、高校三年生の先生とで考えてみてください。 教える内容は、高校の先生の方が高度ですが、教える技術として考えれば、小学生に教える方が難しいでしょう。 教員免許にしても、中高の教員免許は様々な学部で教職課程を履修すれば取ることができますが、 小学校の先生の免許は、教育学部での専門教育を受けなければなりません。 たとえば、おとなしくすることを教えたい場合には、主体は規範訓練となります。 科目訓練で静止を教える 抑制訓練で動き回ることを禁止する 修養訓練で穏やかに育てる などを併用して教え、さらには 向上訓練でしっかりと身に付けさせていくのです。 |
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合図に応じて特定の動作を行なうことを教える 要求を理解し行動を実行する(合図との結びつけ 要求を理解させる 実行能力の習得) まさに、ほめて教えるのにもっとも適した事柄です。 |
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確実性や正確性、審美性、意欲などを高めるように教える 反復練習・技術の習得 ステップアップ・熟練・洗練 |
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社会ルールを身に付ける、いわゆる躾とよばれるもの トイレトレーニング 消去(しない)・中止(やめる)・禁止(してはいけない) |
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生活規範 : 日常において、指示命令によらずに行うように教える トイレトレーニング 意識付け・習慣付け |
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情動行動の制御や内面的なものを育む 協調性 受容力 服従心 作業欲など |
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動作科目 犬に最初に何を教えますか、と尋ねた時に、もっとも多い答えが「おすわり」です。 「おすわり」は、科目訓練の中で代表的なものです。 「オスワリ」「スワレ」「シット」などの言葉の号令、あるいは指先を上にあげるなどの手の指示に対して、 犬が前肢を立てたまま、後肢を曲げてお尻を床に付けた姿勢をとることです。 この、座った姿勢というのは、特に教えなくても犬自身が日常の生活において普通に行う姿勢ですから、 動作そのものを教えるわけではありませんし、動作を行なうための練習を必要ともしません。 私たちは犬に「特定の合図に反応して、特定の動作を行なうこと。」すなわち「条件付け」を教えるのです。 技能修得および技能向上 技術の修得や能力の向上を教えます。いわゆる練習と呼ばれるものがこれにあたります。 動作科目の訓練などは、相手が何を要求しているのかさえ理解できれば、すぐにできることがらと、 できるようになるには、練習を必要とすることがらとがあります。 後者の場合は、知識や技能の習得と、それに必要な能力を向上させねばなりません。 例えば「さかだち」を教える場合には、「条件付け」の前に、逆立ちという「姿勢」を教えるとともに、練習によってバランスのとり方を教えなければなりません。 行動抑制:禁止・中止・消去 やめさせたい事柄によって、あるいは、習慣としてなのか、指示によってなのかによって、教え方は違ってきます。 禁止は、その行動を起こすこと自体を容認しません。主に正の罰を用いて教えます。 中止は、行動が起きた際に、指示によってその行動を止めることを言います。 行動を起こすこと自体は認める対応です。通常の教え方としては、止まれのマテを正の強化で教えます。 消去とは、いわゆる悪化した原因を取り除くことで、問題が起きる前の状態に戻すことです。 程度の低減を図るだけで、行動を起こすこと自体は問題視しません。主に負の罰で教えます。 消去:行動分析学の用語で、行動強化の手続きを中断し、強化の随伴性を導入する以前の状態まで行動が減少すること してはいけないことを教える際に、もっとも一般的に行われるのは叱ることでしょう。行動学では正の罰となります。正の罰を用いない方法としては、対立行動分化強化といって、してほしくない行動と同時にできない行動を教え込む 方法があります。たとえば、跳び付きをやめさせたい場合に、伏せを教えるといった具合です。 理論的にはその通りですが、現実にはかなり難しいものと言えます。 犬にとって、跳び付き行動が、飼い主に遊んでもらいたいがための手段である場合には成功する場合もあります。 つまり、遊んでもらうことが目的で、そのアピールの手段として跳び付いているのであれば、伏せをすれば遊んでもらえることを理解させさえすれば、跳び付き行動は無くなるでしょう。 しかし行動に賞が内在する場合、すなわち、跳び付くこと自体が楽しくてといった場合、あるいは感情の昂ぶりが 跳び付きという行動で発露されている状況であれば、そのような方法でやめさせることは困難でしょう。 また、この方法においては、犬は、人に跳び付いてはいけないということを教えられているわけではありません。 このように、やめさせたい行動については、なぜその行動をするのかを、まず考えてみる必要があります。 すなわち原因の究明です。 行動は、行動そのものが目的である場合と、手段である場合とに分けられます。 また、生得的な本能行動なのか、経験的に得た学習行動であるのかにも分けられます。 賞や罰を用いて、行動だけを変えることもできますが、その場合には原因となる欲求は残したままですので、 犬が目的遂行のために講じる別の手段が、新たな問題となる場合があります。 具体的には、ハウスから出たくて吠える犬について、吠えることを止めさせたら、今度は、ハウスを破壊するようになる場合などがあります。 例えば、外敵に吠える行動は、外敵を排除することが目的なのであり、吠えることはその手段であります。 すなわち、この行動をやめさせたいのであれば、 1. 外敵という認識を無くすこと 2. 守る意識を無くすこと 3. 吠える行為をしないこと 4. 指示で吠え止むようにすること といったことが挙げられます。 規範遵守 跳び付かないように、家具を齧らないようにといった、いわゆるしつけです。 規範を教えることと、それを遵守することを教えることとは、まったくの別物です。 このことをきちんとわかっていない人が、「いくら叱っても犬は覚えません」などと馬鹿げたことを言うのです。 規範遵守を教えるには、まず規範基準なるものが、いつどのように形成されるのかを知らなければなりません。 これについては、「善と悪」の頁で述べましょう。 精神修養 どちらかというと教えるというよりも、育む、身に付けさせるという表現の方がしっくりする内容のことがらです。 受容や我慢といった従順性や、社会性、あるいは何を好きにさせるのかといった嗜好を形成させることなども含まれるかもしれません。 |
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何のために教えるのかという目的が違うことによって、重視される事柄や求められる水準が違ってきますので、 それに伴って教える方法論にも違いがあります。 犬の訓練では当然に、それぞれの犬の飼育目的のためということになるでしょう。 使役犬であればその作業技能の修得と向上を、いわゆる家庭犬であれば、より良い関係のためにということでしょう。 これについては、「体育」と「スポーツ」ということで考えていただくとわかりやすいかもしれません。 「体育」とは、「身体運動を通じて人間形成をめざす教育的な営み」をいいます。 「スポーツ」は「健康や競争や娯楽を目的とした身体運動の総称」をいいます。 たとえば野球を教える場合であっても、学校の授業で行なわれる野球と、同好会として行なわれる野球、 部活動としての野球、さらにはプロ野球とでは、野球を行うこと自体は同じでも、目的は、体力作りを、 仲間との交流を、競技大会での優勝をなどさまざまですので、それぞれに合った「教える」があって当然といえます。競歩という陸上競技種目の選手にとっての「歩く」は、一般の人たちが移動のために歩くことや、 健康のために歩くこととは異なります。 ですから、普段歩くときに競歩の選手の歩き方を真似ようとは思いません。 ノーベル賞の受賞者やオリンピックの金メダリストなど、それぞれの分野で成功した人たちが、 どのように育てられたのかの統計をとって、「育て方」の評価がなされている記事もあります。 犬の訓練でも、警察犬や盲導犬などのように、一般に優秀だと思われている犬の訓練方法を、良い方法だと思って 真似をしてしまうことには、大きな問題があります。 なぜなら、それらの犬の育成には、選抜制度が組み込まれているからです。 たしかにそうした方法は、0.001%の天才の才能を開花させるには、絶好の方法であることに異存はありません。。 しかし、すべての犬を一定水準以上に育てあげる場合に要求される方法と、選別した犬の内から、さらに高水準に 達する犬を選抜していく場合とでは、ある意味、まったく要求される方法が違います。 わかりやすく言えば、「切り捨て」が許されるのかどうかです。家庭犬に切り捨てはありえません。 問題がある場合には、教えて直すのではなく、選抜としてふるい落としていくのです。 学校が決めた規則を守らない生徒は退学させるのであれば、学校は生徒を叱る必要はなくなります。 終身雇用を止めて契約雇用にして、能力のない社員とは雇用契約を更新しないようにすれば、 怒鳴ってまでして、仕事を教え込む必要はなくなります。 これまでに述べたのは、教えることの目的についてですが、 目的という言葉で言うならば、教えることが目的なのか手段なのかによって生じる違いもあります。 教える事柄そのものが「目的」であるのか「手段」であるのかを見誤ってしまうと大きな過ちを犯してしまいます。 人はとかく、お金を得ることが目的となってしまいがちですが、何かしたい事が、何か欲しいものがあるから、 それに必要なお金が欲しいのではないでしょうか。つまり、お金を得ることは、目的達成のための手段のはずです。 教える事柄が、それ自体が目的の場合もあれば、その事柄は手段に過ぎないこともあります。 人は、ともすると「手段」を「目的」と誤りがちです。 たとえば私の中では、犬に伏せを教えることは、犬の服従心を養うための手段にすぎないのです。 それゆえに服従心を求められない、オヤツで誘うような教え方であっては、私にすれば意味をなさないのです。 |
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家庭犬訓練試験や家庭犬競技会などでは、家庭で過ごす上で必要なこととは、全く違うものが求められます。 競技では、メリハリのある敏捷な動作や喜求的な態度、および正確性などが求められます。 |
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使役犬の多くは、それなりの施設で飼育されますし、目的以外については許容されることも多いです。 使役犬の訓練は厳しく体罰も必要だと言い出す人は、それこそ何も分かっていない人でしょう。 作業訓練は元来、その本能を引き出して高める訓練ですから、ほとんどが、遊びや褒めで教えることができます。 |
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競技vs.日常 家庭犬訓練士、家庭犬トレーナーも、しつけ主体と競技主体で異なります。 同じに「家庭犬の訓練」といっても、試験や競技会を目的とした科目訓練と日常生活を主体としたしつけとでは、 犬に求めるものが全く違います。 競技会の犬に求められるものは敏捷性や、喜求度ですが、家庭犬としては、 それらは逆に扱いにくさに繋がる要素でもあります。 使役犬vs.家庭犬 使役犬と家庭犬とでは、目的が大きく違います。 一口に使役犬と言っても、牧羊犬と警察犬と補助犬とではそれぞれに、 さらには補助犬と言っても、盲導犬と、介助犬、聴導犬とでは、と分けていけばきりがないほどです。 特に大きな差として、訓練者と扱い者が同一であるかどうかは、大きな違いを生みます。 警察犬などの使役犬は、訓練者と扱い者が同じなので、極端に言えば、自分のいうことさえきけばいいのですが、 補助犬の場合には、犬を扱った経験のない方のいうことをきくことができるように教えなければなりません。 使役犬全般で大まかに共通することは、使役犬の場合にはオンとオフがあるということでしょう。 仕事については高度なものを要求されますが、仕事中以外の行動はあまり重要視されません。 例えば警察犬であるならば、出動時および現場以外においては、ほとんどあまり要求されません。 壊されることの無い犬舎に飼育され、当然に飼育犬舎の中にはいたずらされて困るようなものもありません。 そして常に犬に接するのは扱いのできる人のみです。 また犬種も特定されていますし、血統的にも選択された犬のみしか扱いません。 家庭犬の訓練ときくと、警察犬や麻薬探知犬、あるいは盲導犬などの訓練と比べて、はるかに容易な思いを持つ人が ほとんどです。たしかに、個々の犬に教え込む内容について考えればそうかもしれませんが、前記の犬たちは、 事前に選別された犬たちを対象に、さらに訓練を進めていきながら選抜されるのに対し、家庭犬の訓練者においては、あらゆる全ての犬をきちんと一定の水準まで仕上げることが必要とされます。 それゆえに、それを仕事とするのには、はるかに多くの幅広い知識と技能、そして多様な経験を必要とするのです。 ただ、家庭犬の訓練は、そもそも達成水準や評価基準がないので、いくらでも誤魔化しがきくというだけのことです。 脚側行進といって人間の横をついて歩くことを教える科目があります。 ほとんどあらゆる犬の訓練に共通するもっとも基本的な科目の一つです。こんな基本的な科目一つをとってみても、 補助犬と警察犬と家庭犬とではそれぞれに、求められるものがすでに全くと言ってよいほど違っています。 さらに同じに補助犬でも介助犬と盲導犬とでは、ある面においては真逆といえるでしょう。 どちらも、使用者の人と並んで歩きますし、何かに気を取られて飛び出したり、 何かに脅えて逃げ出したりすることはあってはならないことです。 しかし同じように見える両者も、始めの第一歩を犬と人のどちらが踏みだすのかという本質的な違いがあります。 盲導犬は人を先導しますし、介助犬は人に同伴しますから、 見た目は同時に歩き出すように見えても、盲導犬は犬が先、介助犬は人が先なのです。 |
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いざとなれば抱きかかえればあるいはリードで抑えれば何とかなるという前提の方法も、たしかに有りなのでしょうが、その方法が正しい方法なのかと言えばそうではありません。 |
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飼育目的によっても、教えるべき、あるいは教えたいことや、水準が違ってきます。 そして、求められる水準、すなわち達成基準には、客観的基準と主観的基準とがあります。 (要求される水準の違いには、目的の他にも、環境の違い、教え手や教える相手によっても違ってきます。) 多くの方にとっての、犬のしつけの達成基準は、他者に迷惑をかけないことと、自身が困らないということです。 これらは、先に述べる教わる側の諸状況によっても大きく異なります。 吠えないようにといっても、全く吠えないことを要求される場合もあれば、あまり吠えないように、 あるいは吠えてもすぐに吠えやむようになど、様々です。 平屋の建物であれば、地盤や構造強度を無視した素人工法であっても、家を建てられるかもしれません。 そしてその人が、これまで何十軒もそのような素人工法で家を建て、これまで一つも壊れていないとしても、 その人の建築方法が、正しい工法であるとは言えません。 |