550二次性の罰
二次性の罰    叱 る  

554なぜ叱らないのか
なぜ叱らないのか
  なぜ叱ることをためらうのでしょうか。
恐怖や痛み、苦しみや悲しみや、あるいは不安といった、一切の負の要素を排除された環境、
すなわち、温室・無菌室の中で育てることが生み出すもの
仕事を与えられず、一方的に愛情を注がれる現代の犬達。
役割を与えられ、その責任を負わされることは、自己有用感を獲得することなのです。
もちろん程度を越えて叱ることや、愛情がないままに叱るだけの場合には、大きな問題を惹き起こします。
だからといって、叱る事が全てにいけないという発想は、健全な成長を大いに阻害するものです。

・いけないことだと思っている
・周囲の人によく思われない
・やってみたけど、うまくいかなかった

なぜ叱らないトレーニングがもてはやされるのでしょうか。

それは、犬のしぐさや表情、あるいは行動といった、表面的なことしか見ることのできない人たちが、
犬のトレーニングの分野に、ビジネスとして参入してきた結果です。
「叱る」という教育の王道を、禁じ手とすることで発生するビジネスがあります。

・相手とそれほど深いかかわりを持ちません。
・叱るだけの熱意も愛情も持っていません。
・手間暇やリスクを考慮したとき採算に合いません。
・愛犬を好き好んで叱る人はいませんから、愛犬家受けしません。
・叱る技術を習っていないから、上手に叱ることができません。

ところが悲しいかな、叱ることのできない人は、実は、褒めることさえもじょうずにできませんから、
感情のやり取りの出来ない相手に対しては、物でのやり取りをするしかないのです。
叱ることを否定して、食べ物を使って教える人は、「飴と鞭」の語をとらえて、「飴」の反対は「鞭」ではない。「飴をあげる」の反対は「飴をあげない」ことだといいます。
(これは、反対と否定を混同しての意見ではあります)
この意見は、訓練を進める上で、大変有意義な面もありますが、反面、「あげない」という行為が罰にもなるし、「欲しい」気持ちを強化していく刺激となり、飴に対する欲ばかりを強めていくことにもなる事になるのです。
  


 
叱る教育方法の副作用
 罰する人がいなければ、不適切な行動をする。 親や教師など、罰する人がいる時には不適切な行動をしない
子供でも、 罰する人がいないと不適切な行動をするかもしれません。
叱って子供を育てていると、子供は「そのことが正しいことか正しくないことか」という判断基準ではなく、「叱られるか叱れないか」ということだけで善悪を判断しています。
つまり自分の内側に善悪の基準をもたなくなり、誘惑に負けず正しいことを行なう力も養われなくなります。つまり、行動には作用するが、心には作用しないということです。
あなたがいつも目を光らせていなければならない子供を育てたいですか?
それとも、あなたが目を光らせていなくても、自分の良心に従って行動する子供を育てたいですか?

叱るだけしかしないのであれば、ある部分、この意見の通りかもしれません。
しかしこの意見は「叱って子供を育てていると」と表現しながらも、 実際には「叱るだけで子供を育てていると」という内容で述べられています。
また、この論法でいけば、褒める教育では、ほめてくれる人がいなければやらなくなるのですし、「褒められるか褒められないか」ということだけで善悪を判断していくことになり、要は全く同じことです。
さらに言えば、「叱る人がいるときには、しない。」 たしかに、一見すると裏表のあるこうしたことは、
あまりいいことではありません。 でも、この子は「この行為は叱られる行為である」ことを認識していますから、誰かに叱られた時には、すぐにやめることでしょう。
しかし昨今、問題になっているのは、人が見ていても平気で悪さをすることなのです。
つまりは、モラルの低下、あるいは道徳心の欠如として述べられています。
叱る人がいないから、この子は「この行為は叱られる行為である」ことを認識していないのです。
ですから叱られれば、「当然に何が悪いのか」と、いわゆる逆切れを起こすのです。



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