心理学や行動学を勉強していくと、次のような話に出会うことがあります。
ネズミをT型迷路に入れます。
ネズミは、右にも左にも行けます。もし、右に行かせたいと思うなら、右にエサなどの報酬をおけばよいのです。ネズミはじきに右に行くことを覚えるでしょう。それでは、右にエサを置くかわりに左に電気ショックの様な罰を置くとどうでしょうか。ネズミは、右に行くようになるでしょうか。なかなか、そうはなりません。
それでは、もっと罰をもっと強くするとどうでしょう。そうすると、ネズミは、パニックを起こし、右に行くどころか、前に進むことさえしなくなり、すみにうずくまったり、迷路から飛び出そうとしたりもします。
このように、罰を使っても、なかなか効果的に人や動物を動かせないのです。
「なるほど、もっともだ」と思った方は、次の文章も読んでみてください。
自動車にはアクセルとブレーキという二つのペダルがついています。 車を走らせたいと思うならアクセルペダルを踏めばよいのです。 ブレーキペダルを踏んでも車は全く動きません。前に進むどころか、車が走っているときに急にブレーキペダルを踏むと中の人は前のめりになって頭をぶつけたり、タイヤがロックして車が滑走し、ハンドルが効かなくなったりしてしまうこともあります。このように、ブレーキを使っても、自動車を思うように走らせられないのです。
いかに乱暴な論法であるかが、ご理解いただけると思います。 脳みそが筋肉でできている訓練士が言うのなら、
笑ってバカで済まされますが、頭脳優秀なトレーナーが言うとなると、何か作為があるように感じてしまいます。
報酬は何かをさせるためのものであり、罰は何かをさせないためのものなのです。
このように使用目的の異なるものを同列に並べて選択することが無意味です。
やめさせたいときには、「良いこと」を無くせばよいのですという論法は、いわばブレーキ不要論であり、
「車を止めたいなら、アクセルペダルから足を離せばよいのです。」というのと同じです。
イルカのトレーニングを「訓練」「調教」といいますが、「しつけ」とは言いません。
一時的な効果を求める「止めさせる罰」と、長期的な効果を求める「懲りさせる罰」について述べましょう。
たとえば、吠えることに関しても、一般のご家庭であれば、犬に一切吠えないことを望むわけではないでしょう。 何かの折に吠えること自体は、構わないし、むしろありがたかったりもします。ただ、深夜や早朝といった時間帯によっては、あるいは、長く吠え続けられるようだと、多くの家庭で止めさせたいと思うはずです。
このように行動自体は容認している場合に用いる罰は、行動そのものを禁止する罰とは、当然に性質が違います。 一つには罰の強さによっても変わりますし、また、その行為の過去の経験値によっても変わります。
今述べたように、止めさせる罰というのは、止めさせる行動自体を禁止している訳ではありません。
単に、その時の状況から不都合が生じる場合や、行動が長時間に及んだり、エスカレートしてきた際に、 一旦止めさせるために用いる罰ですから、最終的には「ヤメ」「オシマイ」などの号令に従うように教えます。
そのために、指示語との結びつけをきちんとさせることが大切です。
犬にとっては、事後の理解というのは困難であり、いわゆる懲罰が意味をなしませんので、 懲りさせるために、
人為的天罰を制止の罰として強めに用いることが一般的です。
人為的に与えるとなると、どうしても躊躇してしまいますが、例えば火を止めたばかりのヤカンを触って
熱い思いをしたなどのように、もともと普段の生活の中で環境から受けていることが多くあります。
危険回避の目的においては有益ですが、効果が大きいということは同時に、タイミングや結びつけを誤った時にはそのまま弊害の大きさにつながりますので、むやみに使ってよい罰ではありません。
しかも、罰を与えた直後の犬の反応に対する対応も非常に重要です。
また、それまで何事もなく何度も繰り返してきた行動であれば、因果関係の結びつきが困難になりますので、
本当に効果を得るためには、その行動を初めて行なったときに与えるべきなのです。
となると、犬がまだ幼少の頃となりますので、それに伴う別の難しい要素もでてきます。
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